「ノマド=自由」という幻想

Posted by tribe on 2017年6月30日

ここ数年、都会のカフェなどでモバイルツールを開いて仕事をしている人をよく見かけるようになりました。このような人達を「ノマドワーカー」と呼ぶそうです。
最近では「ミニマリズム」という必要最低限の物しか「持たない暮らし」も提唱されたりしているようです。これらのライフスタイルは、遊牧民的な暮らしや生き方と共通する部分も多く、なにものにも縛られないノマド的?な生き方が共感をよんでいるのかもしれません。
大都会のしがらみを逃れて荒野に出た彼らを、真の意味で遊牧民と呼べるのでしょか?

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ミニマリズムな空間

今回はラグやキリムとは少し離れたトピックですが、本場の遊牧民とはどんな人達なのかを知るきっかけになればと思っています。

文明と文明の間を繋ぐ人々

十数年前になりますが、東京〜横浜の公立美術館の共同主催で行われた、四大文明展という大掛かりな美術展がありました。四つの文明を同時に開催するのはたいへんな苦労があったようですが、四つを同時期に開催することでこれまでには注目されていなかった新事実が見えてきたそうです。その一つは、その時代に文明と文明を繋いで居た人々の存在が重要な意味を持つということでした。
例えばエジプト・メソポタミア・インダス文明に共通して用いられたラピスラズリなのどの天然石は、アフ二ガスタンの山岳地帯でしか採取できません。簡単に言えばこれを遥か遠くまで運んだ人が居たということです。その存在が遊牧民ではなかったのかと想像されているようです。

「町から外に出た人々とは?」

良く知られているように四大文明はそれぞれ、大きな河口湿地の広がる場所で生まれたと言われています。それらは農耕に適した場所であり、文明は小麦を中心とする限られた農産物によって支えられ、食料の安定供給が人口を急激にに増やすことになったと言われています。
結果としての人口増加は争いを生み、生存競争の時代へと向かったとも考えられています。現代社会にも近い競争社会に嫌気がさし、しがらみのない荒野を目指したのが遊牧民であったかもしれません。

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インダス文明の神官像

ノマドワーカーは本当に自由なのか?

「ノマドワーカー」という言葉自体がもうすでに古くなっているかもしれませんが、「自由な働き方」に関連した情報をみつけました。
『自由な働き方をつくる』や『普通に働け』などの著者であり、人材コンサルタントである常見陽平さんは「基本的には、自由な働き方という考え方は幻想」と語られています。確かに「ノマドワーカー」という言葉がトレンドになり始めた、2012年頃をピークとしてこのところはネットなどでの関連記事も減っているようです。
内容もどれも同じような「メリットもしくはデメリット」や、「なるための方法」だったりと、本来のノマドらしいその場の状況に対応出来る、臨機応変な順応能力とは対照的なノマドワーカーになるための「マニュアル」だったりします。

『ノマド=遊牧民もしくは遊民』と『ワーク=仕事』がどのように結びつくのか?

様々な民俗文化のなかに息づいてきた遊牧民の暮らしと、現代の自由な働き方を求める人々の理想と現実を見てみたいと思います。
「組織に守られないで生きていくためには、組織の中で相当な成果を出している人間でなければ継続してノマドするのは難しいし、組織でカバーできないことを全部自分でやれる人間じゃないとすぐ撃沈する。」というのが常見氏のアドバイスです。
ノマドワーカーがしている仕事って一体どんなことなのでしょうか?
実際にノマドをしている人の職種を見てみると、その職業は様々なものがあげられます。記者、ライター、Webデザイナー、管理職など、多種多様な職業の人がノマドワーカーとして働いています。どうやら、場所や時間の制約が少ない仕事であれば、どのような職業であるかは問われないようです。

「ノマド=自由」という幻想

まずは現在の日本、特に都会のノマド達がどのような働き方をしているのか見て行きたいのですが、基本的には「会社を辞め、所属、時間、場所から自由になり、好きな仕事をする」ことを指しているようです。これらがいわゆる「ノマド」的な働き方なようですが、さきに紹介した常見陽平氏は「基本的には自由な働き方という考え方自体が幻想だと思っています。」とものべているようです。

「加えて、例えば会社を辞めても、仕事をしていて定期的に人に会うことになれば場所の制約が出てきますし、仮に場所にとらわれずどこでも仕事ができるとしたら、24時間仕事に追われる可能性もあるということです。さらに、所属を離れるとそれまで会社がやってくれていたことを、全て自分でやらなければいけません。所属、時間、場所の制約から解放されることが、本当に自由だといえるのかは疑問ですね。」と「ノマド=自由」というのは幻想であるといましめているようです。

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典型的なノマドワーカの仕事場

それまでは「フリーランス」という言葉があり、組織に属さないなりわいも存在してました。ではフリーランスとノマドワーカーはどこがちがうのでしょうか?
ノマドワーカーに関する記事に共通しているのは、組織と個人という感覚をどこまで統合し具体化できるの能力があるかということのようです。「組織に守られないで生きていくためには、そこで相当な成果を出している人間でなければ継続するのは難しいし、組織の各部門を全部自分でやれる能力がないとすぐに無理が出る。」という意見も多いようです。

例えば、執筆業のような自由度の高い仕事も、健康管理、金銭的リスクを考えることは最低限必要です。さらに業界の環境もどんどん変わるので、「本を書くだけじゃ食えない」という状態になったりりすることもあるようです。またそんなリスクを抱えながら、あらゆる業務を自分ひとりでやっていくのは、あまり自由だとは言えないのかもしれません。

本物のノマド=遊牧民の暮らしから知るノマドワーカーの原点

一般的に遊牧民とは鮮烈なイメージを与えてくれる存在でもあるようです。緑の丘と花の絨毯に囲まれたテントの宿営地といった牧歌的な情景、目を見張るような渓流を経巡って行くラクダや驢馬の列、世界でもっとも繊細なラグやキリムを織り出す、色鮮やかに着飾った女性達。そんなロマンチックなイメージは大都会の無機質なオフィイスビルや通勤の満員電車といったものと好対照の印象を与えるようです。
しかし現実は過酷な環境と定住化を迫る政府の圧力、対抗勢力でもある近隣の他部族との勢力争い、そして押し寄せる近代化の波に翻弄されているの存在ともいえるでしょう。

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ホラサーン地方のクルド族 遊牧民

それは先に紹介した常見氏のノマドワーカーへのメッセージとも重なります。『自由に働くという幻想』は乗り来れられない壁なのでしょうか?

西アジア〜中央アジアの遊牧民の暮らしを30年近く見てきて、幾つか気がついた事があります。
過去の歴史や現実の政治的な思惑などが複雑に絡み合ってはいますが、遊牧民には『とらわれのなさ』という曖昧ですが強く感じる共通点が上げられます。
遊牧という過酷な伝統的な生活を離れ、都会に出て行く若者達の中にも都会の生活に疲れて遊牧生活に戻るものも居るようです。

遊牧民と政治の関係に詳しいR.Tapper氏はイランの伝統的な遊牧民に対して、『過去数世紀に亘り外国人旅行者はこのようなイメージに、聖書に書かれている家父長制の残影(それがいかに表面的なものであれ)を見出し、素人をしてこのような遊牧生活は数千年間不変であったのだろうと思わせるような結果を招来してきたようです。しかしながら、イランの定住民にとっては遊牧民のイメージとその残影はもっと深い意味をもっています。彼らの認識ではそれはモンゴル遊牧民のもたらした破壊や18世紀の部族間紛争、20世紀初頭の遊牧民戦士の破壊などの歴史を反映したものです。』述べています。遊牧民にとっても近代や現代社会との関わりは複雑で一筋縄ではいかないようです。

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ホラサーン地方のクルド族 遊牧民

限りない経済成長という神話に疑問が生まれ、制約なき市場主義によるグローバリゼーションの潮流をさけるように、自国ファーストの孤立主義の復活が注目されています。そんな状況の中で人と人とのコミニュケーションを最も大事にし、最低限もモノを愛情をこめて作る遊牧民という生き方をこれまでとは少し違った角度から知る事は悪くないかもしれません。トライバルラグやキリムを通じて遊牧民とは何かまた日本との違いや共通点などを探していけたらと思います。

参考文献:
「自由な働き方をつくる 「食えるノマド」の仕事」 常見 陽平著
ノマドと社畜」 谷本 真由美著
「The Nomadic Peoples of Iran」 Richard Tapper & Jon Thompson.