💊チャルメサング村でもらった薬
Posted by tribe on 2020年8月26日
イランとアフガニスタンのほぼ国境にある小さい村で、小高い丘のすぐ向こう側はアフガニスタンという場所に位置するのがチャルメサング村です。
チャルメはたくさんの、サングは石というような意味があり、直訳そのまま「石の村」が名前の由来だと聞きました。
かつては数百の家があり、村の中心には小さなバザールやハマムと呼ばれる共同浴場もあったそうですが、現在は日干し煉瓦の素朴な家が数件残っている程度です。
メインの仕入れ先であるホラサーンの州都マシャドでかつてアンティークの絨毯商をしていた、サンバシオン兄弟がこの村の出身ということで、度々訪れるチャンスがありました。
とはいえ現在は何もない村なので、バザールが休みの日にただただ休息しに行くようになっていました。
サンバシオン一族は相当古くからマシャドで絨毯屋を営んでいて、最初に訪れた25年前にはメインバザールの一等地に場所にお店を構えていました。
イランでは店の壁に予言者モハンマドや最高指導者と共に先代の写真を飾ることも多いのですが、歴代のサンバシオン一家の写真も飾られていました。
その顔立ちは私たち日本人と同じモンゴル系で、東北の農家のおじさんのような親しみのある顔でした。
当時サンバシオン兄弟の上の兄二人はスイスで絨毯の修復の仕事をしていたので、羽振りも良く、ヨーロッパ向けのコーカサスのアンティーク絨毯なども扱っていました。
弟三人がマシャドの店を取り仕切っていましたが、一番下の弟は、マシャドの中心部にある自宅を改装して安宿を開いていて、そこに宿泊させてもらったこともありました。
マシャドでのビジネスパートナーであるトルクメンの修復師サレヒとサンバシオン兄弟は、同じモンゴル系ということもあって、兄弟のように仲良しでした。
マシャドに暮らすモンゴル系部族の仲間意識は強く、自らをバルバリーと称して一般のイラン人とは少し違うスタンスを持っていました。
アーリア系のイラン人とバルバリー(イラニアンハザラ)と称するモンゴル系民族とは微妙な関係にあり、ソ連侵攻以来、マシャドには難民として大量に流入したアフガンハザラ族の難民も多く、特には差別的な関係もあったと聞いています。
ハザラ族はアフガニスタンでは少数派のイスラム教シーア派なので、シーア派最大の聖地でもあるマシャドには、多の避難民がそのまま滞在することになったようです。
バルバリーという言葉には、13世紀にはユーラシア大陸を制覇し、モンゴル帝国というプラットフォームを築いた勇猛果敢な騎馬民族という意味もあるようですが、定住のイラン人によれば野蛮人という少し蔑んだ意味も含まれるそうです。
民族の違いから、歴史的に洗練された文明をもつアーリア系イラン人とは複雑な関係でもあります。
そのためか平面的な顔つきの日本人である私もバルバリーと呼ばれ、強い親近感を持ってくれていたようです。
それでなくても親日的なイラン人なので、マシャドは特に居心地の良い町でした。
サンバシオン一族の親類がほとんどというチャルメサング村は、彼らの隠れ家的な場所で、大都市マシャドでの生活に疲れるとそこでゆっくりする秘密基地のような場所でした。
キリムデザイナーで、イラン人の中で知る限り最もマイルドなメヘディ氏は、その隠れ家に籠もって糸を紡ぎ、草木で染めて斬新なオリジナルのラグやキリムを織っていました。
こちらもハードな仕入れと購入品の計算におおよその目処がつくと、何も無いチャルメサング村で一休みするようになっていました。
乾いた土色の背景に、灌木や背の低い草がポチポチと点在する風景を眺めながら、遠くからの風に吹かれてボーッとするのが好きでした。
サレヒー達は小高い丘に登って、何やら土を掘り返していることがあったのですが、聞けばこの村は12世期に東からモンゴル軍が攻めてきて戦場にもなった場所らしいのです。
その際は丘に要塞を作り、周辺にたくさん落ちている石をモンゴル軍に向かって投げて戦った話が、チャルメサング村の名前の由来にもなっているそうです。
クルド人の骨董商が一緒について来たことがあったのですが、モンゴル軍と戦った時代に落とされ矢尻、武具、壺などが、時々出土すると聞きました。
ある年、暑さと、ハードな仕入れと寝不足などで体調を崩し、特に腹痛が酷い時がありました。
下痢が止まらず苦労してたのですが、その話を村人にすると、それでは薬を上げるので飲んでみたらどうかと言われました。
薬と言っても市販の物ではなく、村のおじさんが自分で作ったという黒いペースト状の何やらあやしい物体でした。
その時は腹痛がひどく、藁をも掴む状態だったのでありがたく飲みました。
しばらくすると眠けが襲って来て、家の外に組み立てられた縁台のようなベンチでうとうとしてしましました。
ふと気がつくと夢なのか現実なのか、モンゴル軍のような格好の兵士が丘の向こうから攻めて来るのが見えました。
これはまずいと逃げようとするのですが、腰が抜けてしまったのかどうにも立ち上がることもできません。
そのうちにモンゴルの兵士達はどんどん近づいて来ます。
これは一貫の終わりかと思ったら、兵士達から「なんだ同じ民族だ!」というような声が聞こえた気がしました。
そして「こいつは敵じゃない!」とも聞こえたような気がしました。
どのくらい寝ていたのでしょうか?気がつくとあたりは日が落ちかかっていました。
サレヒ達も骨董品探しから戻って来ていました。
熟睡できたので、体調も少し良くなっているように感じました。
ただ見た夢があまりにリアルで忘れ難く、しばしボーッとしてると、サレヒ達から様子がおかしいけどどうしたのかと聞かれました。
おじさんから薬をもらって飲んだら、うとうとしてしまったと話しました。
どんな薬を飲んだのかと聞かれ、ありのままを話すとその薬はまだ残っているかと聞かれたので見せると、ニヤニヤしながらこれはここでは良いけど、空港には持って行ってはいけないと言われました。
マシャドにいる間に飲みきるか処分した方が良いというのです。
なんだか納得いきませんでしたが、その時はなんだかそれ以上は聞いてはいけないように直感しました。
これは後から知ったのですが、当時のイランやアフガニスタンの田舎の村では西洋医学の薬より、昔からその土地に伝わる漢方のような薬があってその一つにケシから採取した阿片があるそうです。
もちろん精製したり、煙にして吸引すると麻薬的な効果があるあぶないモノです。
ただ地元では腹痛の時の漢方としても昔から日常に使っていたらしいのです。
その黒くてネバネバした薬は、ペルシャ語では「teriyak」と呼ばれるモノでした。
タイ〜ビルマ〜中国南部の黄金の三角地帯と同様に、アフガニスタン〜パキスタン〜イランは古くから黄金の三日月地帯よ呼ばれる芥子の生産地でもあります。
お隣のアフガニスタンでは「teriyak」は外貨を得るための大きな収入源であることが知られています。
今でもはっきり覚えているモンゴル軍との遭遇も、この黒い薬がもたらした時間も空間も超えた幻だったのでしょうか?
その後も時間がある時には、サンバシオン村へ通っています。