🕌コムので見た夢

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Infomation(コト) - コラムその他

「ゴム」もしくは「クム」は日本人にとって発音が難しい呼び名の町です。

喉の奥から絞り出すようなペルシャ語独特の発音で、咳がでそうで出ない時に咳払いするように喉の奥から絞り出すような音に近い感じです。

ペルシャ語による詩の朗読などを聞くとフランス語より美しい響きに聴こえて、魅力があるという人もいますが、日本語には無い発音がいくつかあり、ゴムもその一つです。

ゴムにはイスラム教シーア派の教育機関や宗教指導者になるためのイスラム法を学ぶ大学が集中してあるため、イラン人の間では聖なる都市というイメージが強く、外国人観光客を寄せ付けない宗教的な佇まいの町でもあります。
ところが日本の絨毯業界では圧倒的に知られた地名で、バブル期には有名デパートや大型家具店に並んだペルシャ絨毯のほとんどが「クムシルク」と呼ばれる、この地域で織られた絹の絨毯でした。

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ベース(地)のピンクの色が特徴的だった初期のクムシルク

ギネスBOOKに載るほど売れたクムシルク

日本で最もペルシャ絨毯が売れたのは1980年代のバブル期~1991年の湾岸戦争前迄で、日本橋三越本店5階の絨毯売り場ではひと月の売上がギネスBOOKの掲載されたという伝説?があるぐらいペルシャ絨毯が売れていたらしく、そのほとんどはクムのシルク絨毯だったようです。
クム絨毯の人気の秘密はなんと言っても素材です。
シルク絨毯を日常生活で使う習慣の無い日本以外の国(原産地イランも含め)では、それまでは一部のお金持ちの来客用などに織られる程度で一般にはあまり織られていませんでした。
ゴムは絨毯の産地としてはそれほど歴史はなく、20世紀の初めくらいから土地の産業でもある絹糸を用いた絨毯の生産が始まったようです。1860年頃の「蚕」の伝染病で産業が崩壊するまでイランは絹糸の貿易国でもありました。

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1970年代に行われた『ペルシア五千年美術絨毯』の立派なカタログ

だいぶ前にネットで手織り絨毯の下取りを行いますという告知をしたことがあるのですが、連絡がきたのはほとんどトルコ旅行ツアーでヘレケ産と言われて購入したシルク絨毯かクムシルクでした。
シルク絨毯は扱っていないので、直ちにその告知はストップしました。
シルク絨毯の善し悪しについてはここでは触れませんが、現在日本に存在する手織り絨毯はクムとトルコのヘレケ産と称した結び目の細かいシルク絨毯が圧倒的に多い事を実感しました。

黄金に輝くモスク

前置きが長くなりましたが、ゴムに行ったのは初めてイランに行った1988年でした。
イランの中でも思い出に残る町の一つです。
古都イスファハンの絨毯商のピックアップトラックに載せてもらい、テヘランへと向かう旅の途中で訪れました。
着いたのがちょうど日が沈む夕暮れ時で、その光景がとても印象的でした。
というのはゴムでは「ハズラテ・マスーメ」と呼ばれる預言者モハンマドの娘ファティマをまつる黄金色の寺院が有名です。
その時は夕日の光に映し出された黄金色のモスクが、この世のものではないように美しく、ひかり輝いていました。
思わずイスラム教に改宗してしまいそうなほど魅力的に思えました。

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コムの Fatima Masoumeh

イスファハンからテヘランは600キロほどの道のりですが、当時は建物や木もない土漠の舗装状態の良くない道路でした。
イスファハンの絨毯商のピックアップトラックはそんな荒野を100キロ以上のスピードでぶっ飛ばします。
2車線の狭い道路を大型トラックがノンブレーキで行き違い、道の傍らには仰向けになった車が化石のように転がっていました。

最初はひやひやしていましたが、そのうちに適度な揺れがもたらす振動で、激しい眠気が襲ってきました。
運転している彼に申し訳なく、かなり我慢していたのですが、ついにうとうとしてしまいました。

『砂漠の中を運転しているのだが、行けども行けども風景が変らずの同じ場所を堂々巡りしている。ふと気がつくとロバを連れたお爺さんが道路の脇に建っていて車に載せて欲しいようなそぶりをしている。
ドライバーは最初は通り過ぎるが、しばらくして泊まり猛烈にバックして、「しょうがないなあ」と言いながら車を止め、お爺さんをベンチシートの端に、ロバをピックアップトラックの荷台に載せた。

「最初お爺さんと運転手はペルシャ語でなにやら話をしていた。言葉の意味はまったく解らないが、なにやら隣にいる若造が日本から来たと言っているような気がした。しばらくしてこっちが日本人だとわかるとそのお爺さんはなぜだか日本語で話しかけてきた。口元を見ると歯が一本も無かった。お爺さんは戦争に行った事があるらしく、日本はあの憎きアメリカと良く戦ったと、繰り返し、繰り返し話を続ける。こちらはただただうなずくだけだった。」

「そして自分は大昔からラクダを連れたキャラバンの商隊を率いていて、彼の爺さんも、曾爺さんも、曾曾爺さんもキャラバン隊だったと話した。夢なのか現実なのかわからないまま、昔のキャラバン隊もこの道を何日も何日も掛けて大きな荷物をラクダの背に積んで運んだんだろうな。などと想像していると分かれ道に付き、その爺さんはロバとともに車から降りていった。
別れ際にこっちをちらっと見たが、何事も無かったように透き通った目で遥か遠くを見つめていた。
その瞳の奥には、なぜかラクダを連れたキャラバンの影が見えたような気がした。』

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ロバと共に現れた男性

ふっと気がつくと土漠から町の風景に変っていて、イスファハンの絨毯商がもうすぐクムの町に入るところだと告げられました。

インシャアラーの国

イランで感じたことのひとつに、この国の人達が良い意味でとてもマイペースで、何事にもあまり動じないということです。
当時のわたしは、少し何かあるとすぐに動揺してしまい、どちらに進んだら良いのか、わからなくなってしまう事がよくありました。
今でもそうですが・・・。
とくにそのときの旅では言葉も土地感もなく戸惑うことの連続でした。
今思えば若気の至りの極致ですが、当時はイランVSイラク戦争の真最中でした。
わかっていながらそんな状況の国に行ったので、今思えば自己責任として厳しく非難されても文句は言えません。
バブル期のイケイケ日本しか知らなかった自分が戦禍のイランにどうして行ったのか今でも謎ですが、毎日のように厳しい爆撃を受けていたイランの人達が、このような戦火のなか平常心でいられるのかいつも不思議に思っていました。
小さいころから、厳しい環境のなかでたくましく生きてきたこともその一つかもしれませんが、それだけはない生命力と生活力を感じていました。

クルド、バルーチ、トルクメン、ハザラ族のイランの友人たち

しばらく後のことですが、イランでも大人気のテヘラン発のシラーズ行きの飛行機に乗り遅れ、飛行場で大変な思いをしました。
チケットを取るのに苦労したフィライトだったので尚更でした。後の便は深夜に到着で結局迎えのドライバーは帰ってしまい飛行場で途方にくれました。
今なら携帯で連絡が着きますが、当時はまだありませんでした。
その帰り道シラーズからの飛行機が遅れ、さらに預けた荷物が出てこなくて、マシュハド行きの乗り継ぎに間に合わなくなりそうになりました。
心臓がバクバク、のどはカラカラ、汗が止まらずパニックになりそうになりました。
その時に、ふともういいか。という気持ちになったのです。
なるときはなるし、駄目なら駄目でもしょうがないか?という妙な気持ちになりました。
そのとたん、肩から力が抜け気持ちも落ち着き、とても楽な気分になったのです。
そうしたら間もなくゴンドラから荷物が出てきて、ギリギリで飛行機にも間に合う事ができたのです。
後からこれがこの地域の人々が良く口にする『インシャラー』ということに近いのかなあなどと思いました・・・。

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1988年イランVS イラク戦争当時のイスファハンのバザール

あまり自分の意志を強く通そうとしたり、自己を主張しようとすると、壁につきあたったり対立したりする場合が多いように思います。
感謝の心で、消極的でない受身の気持ちをもつのは意外と気が楽になると感じたのです。

それからイスラム圏の旅では飛行機が遅れても、荷物が出てこなくてもそれほど慌てなくてすむようになりました。
日本では全てがスムーズなのでそれはそれで拍子抜けすることもありますが。。。
皆さんも旅の途中で何か会った時、特にイスラム圏では「インシャアラー」を思い出すと楽になる場合があるかもしれません。
仏教でも「他力本願」という言葉があります。「インシャアラー=他力本願」と訳すと研究者に叱られそうですが、自分の力だけではどうしようも無いことはあるものです。

写真引用:irandestination

執筆者:T.Sakaki