じゅうたんの教科書 第一章 じゅうたんの歴史その2 〜世界最古の絨毯パジリク絨毯の発見〜

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じゅうたんの教科書 - 歴史

じゅうたんの教科書 第一章  じゅうたんの歴史2.

手織り絨毯を紹介する上で欠かせないのがシベリアのパジリク渓谷で発見されたパジリク絨毯と呼ばれる2500年近く前に織られた絨毯です。
このブログでも何回か取り上げているのですが、じゅうたんの教科書でも取り上げないわけにはいかない、唯一無二な絨毯です。
重複する部分も多いですが、この絨毯の発見がもたらした影響は計り知れないものがあると思います。

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シベリア南部 パジリク渓谷

<パジリク絨毯の発見>

1949年南シベリアのアルタイ山中のパジリク渓谷でロシア人の考古学者ルデンコによって発掘された200×1.83mの絨毯は、氷のなかにサンドイッチのように埋まっていたために、パイルの状態など保存がとてもよく、絨毯研究者や愛好家の間に強烈な衝撃を与えた歴史的発見となりました。 
アルタイ山脈とはロシアや中国、モンゴルやカザフスタンにまたがる、登山などでも有名な巨大な山脈です。

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最古のパジリク絨毯

スキタイ族の部族長の墓から出土したこの絨毯やフェルトなどは、その後の放射性炭素年代測定調査などでなんと2500年程前に織られたものということがわかりました。日本の古代古墳から出土する埴輪などと同様、族長の死後も快適な生活への願いを込めて埋められた物なのでしょう。
シベリアという気候から、堅い氷の中に閉ざされ墓泥棒から2500年間も守られてきたのです。

〜三つの偶然が重なって起こった奇跡?〜

偶然その1:昔々墓泥坊がスキタイの金製品を盗みに入り、墓の入り口に穴を開けた?

偶然その2:冬の直前に大雨が降り、内部に大量の水分が流れ込んだ?

偶然その3:シベリアの寒冷な気候が水を凍らせ、その後凍土が墓の上を覆った?

3つの出来事が偶然に同時期に重なったことで、絨毯、フエルト、布などの有機物資が冷凍保存状態で、長い長い「時」を眠り続けていたのです。この奇跡的な偶然の発見が現代人に及ぼした事実は意味するのでしょうか?

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スキタイ族の有名な黄金製品

この偶然性がなければ起こり得なかった奇跡の絨毯について、その特徴や時代背景について考察していきたいと思います。

<死者への贈り物>

この絨毯の面白さのひとつは文様の世界観にあると言えます。
絨毯を取り囲むのは28頭の馬に乗った人のモチーフで、その内側には立派な角を持つトナカイが24頭存在し、中央部分には繰り返しの花弁のようなモチーフが表現されています。
発見者であるロシア人考古学者のルデンコを始め、発掘当時は同時代のアケメネス朝ペルシアの伝統にそったものと考えられていました。
確かに中央部分のモチーフはニネヴェア遺跡のレリーフに近く、周りの馬に乗る人々もペルセポリスのアパナダ遺跡(公式会見の間)のダァリウス王への貢物を届ける行列に似ています。

立派な角のあるトナカイのモチーフは周辺の色々な発掘物でも見られます。
例えばヒッタイトやサマルタイなど、多くの遺跡のレリーフや金属性の呪具のようなものの中に登場します。
トナカイはシベリアのシャーマンの被る帽子にもこの角は見られ、この世とあの世を繋ぐ象徴であったかもしれません。
中央部分の正方形繰り返しモチーフは、現在のイラクにあるメソポタミア時代の遺跡の石のレリーフの似ていると言われています。

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左 イラクのニネヴェ遺跡 右 パジリク絨毯の中央部分

このデザインをゲーム・ボードにみたて、死後に退屈しないように埋葬されたのではないかという研究者もいるようです。
私も以前、西インドのマハラジャ出身のディーラーから大型のチェスボード模様の更紗を見せてもらったことがありますが、マハラジャが郊外にキャンプに行く際にもって行きテントの中で遊ぶためのゲームボードデザインが表現されているということでした。

発見者であるルデンコを始め、発掘当時は同時代のアケメネス朝ペルシアやメソポタミア時代に遺跡との類似性から当時の伝統にそったものと考えられていました。確かに中央部分の正方形モチーフはイラクの石のレリーフに近く、馬に乗る人々もダァリウス王への貢物を届けるアルメニア人の行列に最も似ています。

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アケメスネ朝イランペルセポリス遺跡のレリーフ

しかし、その後の研究により当時この地域を支配していたと見られるスキタイ族(サカ族)とその末裔である遊牧系部族によって織られたのではないかという説が有力になっています。
1960年以降中央ユーラシアの草原の遊牧民の研究が盛んになるに従ってこの地域でのスキタイ族の高度な文化が見直されたこともあります。

<染料から辿る絨毯の産地>

また、部族絨毯研究家のブライアン・マクドナルド氏はこの絨毯のデザインはアケメネス朝の影響を受けたことは疑いないが、当時に中央アジアには高度な絨毯を織る工房があり、この絨毯を彩る紫がかった赤の色が茜ではなく、虫由来によるものであることがその証拠であるとしています。
また全体に使われている青も代表的なブルーの染料であるインディゴ(藍)ではなくウォード(大青)という植物だということです。
ウォード(大青)はイラン高原にはあまり無く、より北方の草原地帯が産地ということもわかってきています。
確かな情報ではないのですが、アレクサンダーの末裔が住むともいわれる、アフガニスタン〜パキスタン国境のコヒスタン地方の山岳部族達が、つい最近までケルメス染(虫由来)が見られたという話を聞きました。「絨毯ベルト」ともいわれる中央ユーラシアの草原地帯は、拠点を移動しながら文明を築いてきた、多部族・多文化・多言語を持つ騎馬民族によって形成されてきたと言えるのではないでしょうか。

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左 大青 ウォード(ブルー) 右 ケルメス (レッド) 天然染料

教科書で見た記憶に残っているかもしれませんが、長い間ユーラシアでは、西方起源の民族による支配と統治がされてきたという史実の中で、東方の騎馬民族は野蛮で非文明的な「バルバリー」などと蔑まされて来ました。起源前1000年、ちょうどパジリク絨毯の織られた時代から、東方の起源のモンゴル系の西方への移動の始まった時期とも重なるようです。
現在でもパジリク絨毯の起源が西方からなのか東方のものなのかは意見の分かれるところですが、東方の騎馬民族「バルバリー」の最も充実した時代です。
その後のピョートル1世のシベリアコレクションに代表される多くの金製品の発見、20世紀初頭のソ連考古学調査隊の発掘調査で、起源前6~4世紀の騎馬民族が保有していた高い文化が、世間に知られるようになったのです。

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パジリク古墳の内部の発掘当時の状況

発掘品のほとんどはクルガンと呼ばれる高塚古墳から出土したものですが、その分布が北コーカサス・西トルキスタン・西 / 南シベリアなどと範囲も広く広大な草原地帯を覆おうことが分かってきています。1960年以降中央ユーラシアの草原の遊牧民の研究が盛んになるに従って、この地域でのスキタイ族の高度な文化が見直されたことも一つの要因です。
中央アジア考古学の巨匠加藤先生もこの地域の大きな墓室をともなうクルガン(高塚墳)と朝鮮半島や日本の古墳(例えば奈良の藤木古墳)などが無関係ではないのではないかという見解を示されています。

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パジリク古墳から出土したフェルト

東方への繋がりも視野に入れながら、奇跡の発見パジリク絨毯が私達に教えてくれるものは何か? 興味が尽きないじゅうたんの世界です。

参考サイト:tribe-log.com 「奇跡の発見!パジリク絨毯の謎(第2回)ルーツはトルコorイランそれともシベリア!?」 

執筆者:T.Sakaki