部族の絨毯との出会い=草原の赤い絨毯 vol.1

Posted by tribe on 2014年10月19日

絨毯との出会い

今回は私が絨毯と出会ったいきさつというか、この仕事を始めた頃の思い出を綴っていきたいと思います。人が何かの魅力にとらわれる時、スタートが些細な巡りあわせというのはよくあることです。私の活動は今でこそ絨毯への思い入れによるものですが、その始まりは本当に小さなきっかけでした。
もし絨毯やテキスタイルに興味があって踏みとどまっている方や、結局どう踏み込んでいいのか分からない方々がいらっしゃったらこの話を読んでみて下さい。私の場合も、本当に些細なきっかけから絨毯とテキスタイルの世界に入っていったのです。

1988年3月。イランVSイラク戦争中のイランへ初めての仕入れの旅にでかける事になりました。

ふとした事でパキスタンの絨毯商と知り合い、1年勤めたダンボールの製作会社を辞めて大学時代の友達と絨毯の仕事を始めて少したったころの事です。軽い気持ちで始めた仕事だったせいなのか、友達とはとすぐに仲違いしてしまいました。
パキスタン人から預かった絨毯を時間貸し店舗にならべて販売するという、テキ屋のようなその日暮らしの日々でした。
それでも何とかやっていけたのは、まさにバブル期の真っ只中だったからでしょう。ペルシア絨毯パキスタン製などと宣伝しても、誰もが分からなかった時代です。そのころ絨毯はデパートでは超高級品として、もったいぶって飾ってありました。
下町商店街の道端の店などでは、通りすがりのおじさんから ”何故じゅうたんがそんなに高い値段なのか!” と、怒られることもしばしばでした。

pakistanrug
          トルクメン絨毯をアレンジしたパキスタン製絨毯

バブル期で ”それなりに稼ぐ” という意識があったのかもしれません。今の世の中からすればとんでもないことです。ただ今日のアジアやエスニック雑貨に何か湧き上がる魅力を感じるのにも似て、遠方のテキスタイルをなんとなくチョイスしていた様に思います。
とはいえ直輸入なので、デパート価格に比べると三分の一くらいの値段でしたから玄関マットなどは良く売れました。その時一番人気だったのが、深紅の地色に8角形の象の足型のような文様が織り込まれた「赤いブハラ」と呼ばれるパキスタン絨毯でした。

お客さんの来ない時は,良く絨毯を眺めていましたが、その時はその「赤いブハラ」という絨毯が「トルクメン族の絨毯」をまねて織られたという事など知る由もありませんでした。時々、来日したパキスタンの絨毯商がケタ違いの値段で店頭に飾る本物のイスファハン産のペルシア絨毯などを見せてくれることがあって、あまりの豪華さに時間を奪われたものです。コム産のオールシルクの絨毯は、薄暗い部屋の間接照明の光の下で見ると、神秘的な輝きを放ちこれこそがが本物のペルシア絨毯なのかと、ため息をついていた日は忘れられません。
ごくまれにごつごつとした素朴な絨毯が混ざっていたのですが、その絨毯は重く堅く厚く、扱うのに苦労しながらも何故か気になる絨毯でした。お客さんのひいた後の休憩時間など、妙に気になるその絨毯を広げてしまうことがよくありました。
それはアフガニスタンの絨毯だと後から分かったのですが、その落ち着いた色彩と素朴なデザインは今でもはっきりと記憶に残っています。

トルクメン絨毯
トルクメン絨毯(ラグ)

ペルシア絨毯の本場イランへ!

その辺りからでしょうか、気付いた時には絨毯の魅力にすっかりととりつかれていました。ただなんとなくバブルに合わせて豪奢なものを取り扱っていた感覚は、いつしか本当の愛着と畏敬に変わっていました。

人間何がどうなるか分かりません。そのジャンルや物事で本来の奥深さ / 世界を知るきっかけはどこにだって転がっています。だから ”人生は面白い” と、自分たちの手足で駆け抜けた昔の人たちは語るのかもしれません。それを教えてくれたのが、私の場合は「部族(トライブ)の手しごと」だったのでしょう。

そのうち「絨毯の本場はイランにある」という事実から、彼の地に思いを馳せるようになったのにもそれほど時間はかからなかったと思います。かつて仲違いし、一緒に絨毯の路上販売を始めた友人はイラン人の絨毯商と巧くやっていて、赤坂や地方都市の物産展でかなりの売上をあげていました。そのうちに彼がイランに行くというのでとてもうらやましく思ったものです。やはりペルシア絨毯の素晴らしさは群を抜いていたので憧れの物でしたし、その本場へは ”一度は行かないと話にならない” と強く思うようになりました。

しかし当時はイランvsイラク戦争の最中で、海外旅行の経験の乏しい自分にとって海外の、しかも戦争最中の国に対する不安もあり、なかなか踏み出すことはできませんでした。
そんなある日、偶然に展示会で知り合いになった「チャイハネ」というサロンを開いている方に、信頼の出来るイラン人を紹介して貰うことが出来、幸運にもその人とイラン行きというチャンスが巡ってきました。
「チャイハネ」には、当時は少なかったイラン人や、ユニークなキャリアを持つ方が多く集まっていたのですが、「チャイハネ」のオーナーは革命前のテヘランで日本人学校の先生として赴任されていた経験を持ち、パーレビ時代末期の華やかな最盛期のイラン文化を経験されて日本に帰国された方でした。
テヘランではチャイハネのオーナーがイラン滞在中の下宿先に世話になるという条件で、初めての仕入れの旅に出ることになったのです。

長くなりそうなので、今回はこの話はここまでにしておいて数回に分けて書いていきたいと思います。次回はイラン現地での話が中心です。今とはイラン国内とも大分違うところもあると思いますが、興味のある方無い方も、暇つぶしに読んで頂ければ幸いです。