部族絨毯との出会い 〜戦火のイランへの旅立ち〜 vol.2
Posted by tribe on 2015年4月25日
個人的な経験なので、このブログで紹介するかどうか迷いましたが、この仕事を始めるきっかけになった強烈な体験なので引き続き紹介したいと思います。以前に紹介した記事「部族の絨毯との出会い=草原の赤い絨毯 vol.1」の続きです。少し長めですがどうかおつき合い下さい。
灰色のモスクワ空港での一夜
日本でパキスタン人の絨毯商の持つ絨毯を販売していたのですが、本物を現地で見たいという思いがどんどんつのり、1988年の3月に初めてイランへの旅に出かけました。
しかし当時はイランvsイラク戦争の真っ最中で、海外経験の乏しかった自分にとってはとても不安な旅でした。商店街の貸し店で知り合った「チャイハネ」のオーナーの紹介で首都テヘランの知人を紹介してもらったことが後押しとなり、ついにイランへ旅立つことになりました。飛行機は、当時一番安かったアエロフロートのモスクワ経由便でした。
ソ連時代のモスクワ空港とトランジットのホテルは薄暗く、共産主義時代のため広告の看板や売店がほとんど無いこともあって、見渡す限り灰色という印象でした。これから向かう戦火にある未知の国の事を思うと不安な気持ちでいっぱいでした。ホテルではほとんど眠れない一夜を過ごし翌朝早くにテヘランへ出発しました。
通常であれば5時間ほどのフライトなのですがその時はテヘラン上空で1時間以上も旋回を繰り返し、なかなか着陸できませんでした。後から聞けば空港へイラク軍の攻撃があるかもしれないという事だったそうです。すでにその時からその後におこる様々な事態の予兆だったのかもしれません。
実際に戦闘状況が悪化に向かい、孤立無援のイランはサダム・フセイン所有のスカッドミサイルの攻撃をまともに受けるようになりました。テヘランは危険度が高くなったので、知り合いのイラン人に勧められて古都イスファハンへ避難することになりました。
ペルシア帝国最盛期サファビ朝時代に都があった古い都はかつて「世界の半分」と詩われた美しい町ですが、この時ばかり有名な王(シャー)のモスクにも人影はなく、絨毯、更紗、金属工芸などの工房が並ぶシャーの広場もひっそりとしていました。観光地としても有名なセオセポル(三十三橋)のたもとにあるチャイハネへむかう途中にある、すずかけの並木道を歩いている時でした。
古都イスファハンのバザール入り口
前から歩いてくる若者が声をかけられ立ち止まりました。彼は手にもっていたニンジンをさっと手渡してくれました。イスファハンは美しい街だが、住んでいる人には注意したほうがいいという噂がありましので、少し緊張していたのですが、彼にはとても安心してしまう何かを感じたのです。
その理由は彼の顔が日本人とそっくりで、彫の深いアーリア系の顔とは違っていたからかもしれません。その時は、まるで昔からの友人から受け取るように自然に口に運びました。そのニンジンはとても甘い味がして、覚えたてのペルシア語で「ホシュマゼ」と答えました。彼もにっこり笑って今度は、英語でどこからきたのかと聞いてきました。
実際多くのイラン人から「何故今ここにいるのか!?」という質問を受けました。
彼もこんな戦乱の中、明らかに外国のしかも東洋人がいることが不思議だったことでしょう。
ザーヤンデ川の橋のたもとにあるチャイハネに行くところだと云うと、彼も時間があるらしく、同行してくれるというのです。戦渦でも変わらない川の流れを見ながらチャイを飲み、水パイプを吹かし、どこまで話が通じたのかは解りませんが二人はすっかり仲良くなりました。モタギーという名のトルクメンの青年は、イラン東北地方のゴンバデ・カブースという町から、イスファハンの美術学校へペルシア語の書道(カリグラフィー)を勉強しに来ているということでした。
古都イスファハンの美大生との出会い
彼との出会いをきっかけに部族の赤い絨毯を知り、現在の部族絨毯を扱う事にに至ったといえると思っています。私が日本から一人来ていたことに興味を持ったのか、翌日は彼の通う美術学校へ案内してくれと約束しました。美術学校はイスファハンの中心にあり、かつての王の広場の中央に建つ宮殿(アリ・カプ)の直ぐ裏手にありました。
そこは伝統工芸を学ぶには最高の環境でした。500年を超えるモスクや宮殿などのの建物に囲まれた小さな美術学校には、イラン各地から集まった美大生達がおり、トルクメン族のモタギー氏の親友で映画を学ぶアルメニア系の人懐っこい男や、ラジオの海賊放送で覚えたという流暢な英語を話すクールなシュールレアリストなど、多くの若者達から、様々な質問を受けました。報道が規制され海外の情報に飢えていた彼らとは、イラクとの戦争やアメリカの存在、国際政治の有り方、そしてイランと日本の将来についてなどなど夜も更けるまで話をしました。同時にイランの誇る文化である絨毯、更紗、タイル、金属加工、木工芸、ペルシア書道など多くの歴史ある伝統工芸の数々を知りました。戦火はますます激しくなりバザールは休業状態で時間はたっぷりあったので、当時流行っていた映画に連れていってもらったり、サントゥールや太鼓などの伝統音楽を聞かせてくれたり、親切極まりないイラン人のお持てなしを存分に受けました。
極限のイランとバブル期の日本
日本にいる限り、どうしても偏った情報しか流れてこないのだということを、その時に初めて知りました。
その頃のイランとアメリカの関係は最悪で、アメリカをはじめフランス、イギリス、ソ連(当時)などの列強がサダム・フセイン側に味方し、イラクの軍事力はどんどん拡大し、そのありあまる武器や弾薬の貯蓄がその後の湾岸戦争に傾倒していく要因になったのだととも言われています。強制退去のような状況で帰国する空港で、飛行機に乗り込む間際、ボロボロの軍服を着た、目つきの鋭い兵士から今ここで「アメリカに死を」と書かないと搭乗許可を出さないと凄まれたことも有りました。イラン革命直後を描いた「アルゴ」というアメリカ映画のラストシーンの状況そのものでした。
当時は海外からの報道をかなり規制し、ほとんど鎖国状態だったイランでとても人気の有ったテレビ番組が、古いNHKの朝の連続ドラマ「おしん」の再放送でした。噂では視聴率は70%以上とかで、当時の大統領ラフサンジャニ氏も大ファンだということでした。そんな訳で、日本の文化に親しみを抱いている人に大勢出会いました。当時イランで最も有名な日本人女性の名はオシン、男性ではユウゾウだったと思います。厳しい環境の中でひたすら耐えつづけるけな気な少女の姿は、当時の耐え忍ぶイランの状況と重なり合って多くの人の心に訴えかけたことでしょう。
戦争が終わり、落ち着きを取り戻したイランから連日大挙して人々が日本を訪れ、後に社会問題になりましたが、バブル期の人で不足と高収入、ビザなしで入国できたという事実があったにせよ、大好きな「おしん」の住む国、日本に大いなる憬れを抱いてきた人々も少なくはなかったと思います。
そのころ日本はバブル期の絶頂期、ギンギンギラギラ・イケイケの現実にさぞかし驚いたことでしょう。しかしそこはしなやかでしたたかなイラン人、あっという間に日本に溶け込んで、しっかりと稼いで帰ったと聞いています。もちろん敬虔なイスラム教の人にとってはテレビの中の世界と現実の日本のギャップにはさぞかし驚いたかもしれません。日本の文化は「おしん」だけではなく、映画ではやはりクロサワ、サムライ、ミフネという言葉を多くの人が知っている事にも驚きました。私が知っていたイランの文化人はキアロスタミ氏だけでした。
戦時下では、映画は唯一の娯楽であったはずです。厳しい検閲があるイラン映画界では、相当の表現力がないと感動的な作品は出来なかったでしょう。その時代に多くの有能な若手の監督が苦労を重ねた事が、最近のイラン映画の高い評価に繋がっていったということが想像できます。
当時の体験は強烈なカルチャーショックとして昨日のことのようにありありと思い浮かぶ事ができます。25年以上毎年イランや西アジアへ出かけていることも不思議でが、今でも西アジアの人々や部族絨毯と出会えた事には本当に感謝しています。(つづく)