遊牧民でないと使わない不思議な毛織物ナマクダンて何?
Posted by tribe on 2015年6月3日
このコーナーでは様々な機能を道具としての毛織物を紹介したいと思っているのですが、なかでも最も遊牧民らしい道具が「塩袋=ナマクダン」ではないかと思います。そもそも塩袋という存在自体、日本ではほとんど知られてないのではないでしょうか?
遊牧生活以外ではほとんど実用には向かない、生活のにおいに溢れるユニークな造形の袋です。
私たちの日常生活にはまったく役に立たない、得にもならないお話ですが、どうかおつきあい下さい。
これは何を入れるための袋ですか?
実はこの不思議な凸形にはそうでなくてはならない特別な意味があるのですが、ご存知の方は少ないと思います。10年程前に、小学校高学年を対象に遊牧民についてのお話をした事があるのですが、その際に実物をみてもらいながら、「何」を入れる袋かを質問したところ、正解率は0%でした。
現地イランでもこの袋が何をするためのものか知らない若い人達が増えているようです。テヘランで開催される絨毯展示会に出展しているアンティークディーラーのブースで塩袋を物色してた時、若いイラン人の女性から「これは何を入れるモノですか?」と聞かれたことがありました。現在は外国人の愛好家がコレクションするための趣味の対象になってしまったのかもしれません。
遊牧生活に欠かせない塩とそれを守る塩袋
塩入れ袋(ナマクダン)とは遊牧民に欠かせない袋物で、その名の通り塩(岩塩)を保存・保管する為の入り口が細い形状(凸形)の袋のことです。
塩入れに興味を持ち始めたきっかけは、このユニークな造形です。最初に見たときは何故このような形をしているのわかりませんでした。素朴な疑問として、なんで入り口部分が細くなっているのか? 現地でもなんとなく聞きそびれていました。
塩を入れる袋だということは知っていたのですが、この壺のような形状に何の意味が隠されているのかは長い間謎でした。
袋の入りの開口部の広さに多少違の違いはありますが、ほぼ人の腕が入る程度のサイズになっています。
展示会などで塩袋を手に取った人々の多くは、何故か袋の入り口に手を突っ込んで、試してみるような様子をされます。とくにある程度の年を重ねた女性にその傾向が見られました。この袋を手にするとどうして、手を入れてみたくなるような感覚になるのでしょうか?
いつもそんな疑問をもっていました。確かに塩入れ袋は、長年の遊牧生活で繰り返し繰り返し、手を入れて塩を取り出してきたのだろうと想像できます。その造形とサイズから女性どうしの直感が働くのかもしれない等と思いたくなります。
●左はジジム織り(縫い取り技法)右はキリム織り(綴れ織り技法)のクルド族の塩袋ですが、まったく違った印象をうけます。特に左はこの地域に古くから伝わる物語りの悲劇のヒロインを織り込んでいるそうです。
乾燥地域に暮らす草食動物に必要な塩分
回りくどくなってしまいましたが、この凸形の造形は、家畜などの動物の口が入らないようにくびれているのです。西アジアの遊牧民に取って最も大切なのはヒツジをメインにする家畜ですが、その家畜をコントロールするのに塩は必要不可欠です。
日本中を歩きまわり「歩く巨人」と称えられた、尊敬する民俗学者の宮本常一氏が日本各地に残された「塩の道」という日本古来の交易のルートを調査されています。
特に山間部や内陸地域で貴重な交易品でもあった塩は、チベットなどでもかなり高価であり、同時にたいへんな苦労をして高地まで運ばれたようですが、日本でも岩手県などの太平洋沿岸の海で取れた塩を北上山地を超えて内陸部に運ぶための「塩の道」があり、馬では越えられない峠道では牛に塩を積んで運ばせたという「ソルトロード」が存在していてたらしいのです。
他でもこんな逸話があります。
『牛は頑固で、なかなか人間の思う方向へ誘導できないが、塩をご褒美にくれることが分かると言うことを聞くそうですよ。中国の山奥で牛を誘導する際、目的地に着いたら(人間の)おしっこを与えるようにしたら、わりととうまくいう言う事をきいてくれたそうです。』
この話からも牛はほんとうに塩分が欲しいという事がわかります。羊やヤギも、おそらくは馬やロバも同じことがいえるのではないでしょうか。
特に夏場が厳しい暑さの乾燥地帯では、草しか食べない草食動物にとって塩分は命綱となるでしょう。このところ日本でも夏場の塩分不足によって熱中症になる方が増えていますが、動物達にとっても同様です。貴重な塩は夜間などに動物達に舐められないように保管・保存して置く必要があるのです。
このところ長野などの高原地帯で野生のシカが急激に増え、農作物を荒らす被害が増えているそうです。その原因のひとつが、凍結防止用に道路に撒かれた塩化ナトリウムを夜間にシカが舐めることで、栄養分が補給されて越冬が可能になったのではないかという内容のTV番組がありました。
●両方とも最も気に入っているバルーチ塩袋ですが、左側のパイル塩袋は、色彩・羊毛の艶・デザインのバランスともに抜群で大きな絨毯が買える程の価格でした。
大切な塩を守るための手のこんだ文様や技法の塩袋
トライバルラグの愛好家やコレクターにとっても塩袋は常に人気のあるトライバルグッヅですが、その人気に火をつけたのは「The BREAD AND SALT」の出版です。イラン人の部族絨毯研究家Parviz Tanavoli 氏によって1991年に出版された塩袋とソフレのコレクション「ソフレと塩袋」は、遊牧民に欠かせない塩とナン(パン)にスポットをあてて、生活に欠かせないモノ=トライバルグッヅとしての面白さを紹介しています。
部族絨毯研究が最盛期を迎える1970年頃から調査研究を重ねたTanavoli 氏は、僻地調査が難しかった時代(イランのイスラム革命~イランVSイラク戦争中)に、イラン人としてのアドバンテージを生かし、調査、収集を行い、希少なコレクションを完成させました。なかでも塩袋のコレクションは素晴しく、各部族ごとの特徴的なモチーフが集約されて表現され、どれを見ても圧倒されます。同時に独特な凸型のフォルムや集めやすいサイズなどから、その後欧米では多くの塩袋コレクターが出現しました。
1995年頃からは、現地でも見応えのある塩袋は姿を消し、現在ではお土産用の新品を織るようになってきています。さらにはParviz Tanavoli 氏の著書「BREAD AND SALT」すら貴重書として入手が難しくなってきています。
これまで扱ってきたものの中から印象に残った塩袋を紹介したいと思います。
●味わい深い文様がスマック織りで表現されていてるルル族の塩袋。タテ糸が袋の肩口からそのまま出ていたのが印象的です。後になってこの肩口からそのまま出ているタテ糸の残りが重要な意味を持つことを知る事になりました。
●この塩入れもは思いで深いもので、とくに左のシャーセバンの塩袋はとても珍しいものでした。ただでさえパイル(絨毯)技法が少ないのがシャーセバン族ですがパイルの塩袋はこれ以外見た事がありません。
●頑丈な紋織りと、たくさんの房飾りが特徴のバローチスタン州のブーラーフィー族の塩袋は凄いインパクトがあります。この塩袋たちは、遊牧民に必要不可欠な塩を家畜から守り、それ自体が魔除け的な意味を持っているのかもしれません。このブラーフィーの塩袋自体に呪術的な雰囲気を感じてしまいます。