「小商のすすめ」~コロナ禍の中で経済を動かすには~vol4.
Posted by tribe on 2020年7月9日
前回のブログ「コロナ禍の中で経済を動かすには!vol.3持続可能な社会」で紹介しようと思いつつできなかった「小商のすすめ」についての考察です。
小商のすすめ
次回の続きとなりますが、小商のすすめとはこれからの生活を立て直すための一つの方法です。言い換えると「自立のすすめ」ということに繋がるのかと思います。
これまでの経験を生かしつつ、実際の生活をやりくりするにはどうすれば良いのか?
自粛生活で時間があったので、今後のことを考えていたら昔読んだある本が本棚の中から、一冊の本が呼ばれるように浮き上がって見ました。
それほど厚くもない小さめ本で、タイトルは「小商のすすめ」〜「経済成長」から「縮小均衡」の時代へ〜という東日本大震災の後に書かれた平川克美さんの著書です。
前回紹介した広井良典さんの考えとも共通する部分が多いのですが、震災後に多くの人達が体験を通じて感じた、それ以前の市場経済至上主義的な新自由主義から一人一人が責任を持って小さな商いを(身の回りの問題)を引き受けることが、苦境を乗り越える第一歩だという内容の本です。
たった9年前の震災時には多くの日本人が、未来を憂い効率重視の社会に疑問を持ったのですが、中国の凄まじい経済発展に引きずられるように、いつしかそのことも忘れてしまったていたように思います。
原発被害の風評などで、一時的に外国人観光客もほとんど来なくなり観光産業もかなり落ち込んでいいました。
今回のコロナ禍の直前まではそれもどこふく風とばかりに、年々史上最高の観光客の増加という数字が報道されていました。
たくさんの小商が存在していた江戸時代
そこに今回のコロナ禍が起こったわけですが、その拡大と蔓延は全世界的であり、「移動」と「人々の密集」という経済には欠かせない、人間の行動そのものが止められてしまった事が今回の難しさの問題だと思います。
一時的ではありますが、世界各地が江戸時代の日本が行っていた「鎖国」のような状況になった訳です。もちろんインターネットによる情報のグローバル化という、当時とは全く違う側面もあると思います。
日本で小商が最も充実していたのは江戸時代という説があります。周知の「鎖国」制度がしかれていた江戸時代のお江戸には実に様々な職業があったようです。
例えば、最近まで続いていた鍋や釜の修理や包丁研ぎ、傘の修繕や着物などのかけはぎ(今のダーニング)、下駄や履き物の修理(ミスターミニッツ)、献残屋と呼ばれたリサイクルの回収屋さんなど、今でも形を変えて残っている職業も多く、気がつくのはモノを大切にして、直し直し使い続ける「もったいない」という精神が根底にあったように思います。
ただ、いかにお客さんを見つけるかというのが大変だつたようで、江戸の長屋を歩きながら独特の節回しの「声がけ」で集客を行っていたようです。
今ではその辺りをUberやAirbnbなどのマッチングアプリを利用することで、江戸時代より遥かに容易に仕事を見つけることができるようになっている思います。
私たち日本人には、昔から共通した「お上」に従っていればなんとかなる、という思考があるように思います。
島国ゆえに外敵に侵略される経験が少なく、地震、津波、台風などの天災意外ではあまり危機的な「禍」が無かったことも要因かもしれませんが、権力にはいつも従順であったように思います。
そのためか日本人の精神性の奥底には、東日本大震災のような天変地異の際は「時の政権」に何か問題があり、それをリセットすることで新しい時代が迎えることができるという共同幻想のような思想があるようも感じられます。
20年に一度の伊勢神宮の社の建て替え(式年遷宮)、毎年の「初詣」や6月晦日に穢れを落とす「大祓払い」などもその精神性に通じているようです。
偶然か必然かはわかりませんが、不運なことに東日本大震災の時に政権に着いていた民主党は大いに信用を失ってしまいました。
ここ一月ほどの現政権への支持率の低下も、単なる政府のコロナ禍への適応力不足の他に、新しい時代へのリセットをどこかで期待する、日本古来の精神構造が隠れているのかもしれません。
そういう意味でも時代は大きく変わる方向へ傾いているという可能性は大きいということです。
「いま・ここ」に責任を持つ小商
では「小商のすすめ」の本題に入ります。
本の冒頭には「身の回りの人間的な小さい問題を、自らの責任において引き受けることだけが、苦境を乗り越える第一歩になる。」とあります。
著者の平川克実さんは、「いま・ここ」に責任を持つ生き方とも言い換えています。同時にそれは自己責任とは違うことも強調されています。
グローバリストの言う自己責任、自己判断、自己防衛、という流れは新自由主義的な市場の原理に左右されますが、「いま・ここ」に責任を持つことはそれとは全く正反対なる考え方であるとしています。
それは自己責任とは関係のない他の人のための損な役回りも引き受けると言うことにもつながります。
これはジャック・アタリ氏の言う「利他主義」にも繋がる考え方ですが、人間が集団で生きていくために誰かのために無償で行う行為の連鎖は、感謝の気持ちを産み出し、社会全体を健全に動かしていく活力にも繋がります。
先住民族の世界で大切にされてきたリターンを期待しない「贈与」と言う制度は、多くの文化人類学者達にも共同体を気持ち良くまわしていくための智慧と考えられています。
「小商」とは自分が売りたい品物を、欲しい人に直接繋でいける商売の方法です。
それは作り手が使い手との間に、物だけでなく情報も含めた相互共有ができるダイレクトでシンプルなビジネスのあり方です。
今後は貨幣を介さない「物々交換」なども復活するかもしれません。
イスラム圏に残る「バザール」という商業施設では今でもその機能を残しています。
また先に紹介したウーバー、メルカリなどここ数年で進歩したテクノロジーはそれを容易にしています。
今更ですが、巨大なメデイアや大型の商業施設を通さずに売り手と買い手が繋がることで、単なる利益の追求だけではない、心の交流も生まれる筈です。
ここ数ヶ月で世の中の動きは明らかに変化しています。
今社会に変化を起こさなければ何時できるのでしょうか。
仕事に充足感を得られる小商
私たちは仕事の中に労働から得られる「充足感」・「満足感」と単なる労働の「疲労感」・「虚しさ」の両方を感じていると思います。
この問題について思想家の内山節氏は、この問いには二つ視点で考える事ができるとしています。それは「スケール」という視点と言いかえられ、規模が大きい企業や組織の場合、主役はシステム(組織)でありその組織に融合する事でしか個人の価値は生まれないとしています。
例えば個人が重要と思われるポストを去っても、その人が居た部署に違う個人が置き換えられる事で、その業務はそのまま維持され続けます。
組織にとっては欠かせないシステムとも言えるでしょう。
個人は企業にとって必要な単なる労力にしか過ぎない存在です。
スケールの遥かに小さい「小商=マイクロビジネス」は、自分が作った料理をお客様がどんな顔で味わってくれるのか、また米、野菜、家畜、手仕事、芸術、工業製品を自らが作り育てる工程自体に、満足感を得られることもあるでしょう。
私個人の場合で言えば、遥か遠い国で織られた美しい布や絨毯を見つけ出す時の楽しさ、またそれを気に入ってくださるお客様との出会いという仕事の中に大いなる充足を感じられます。
組織や企業の中で、より良いポジションを得る「椅子とりゲーム」のための悪巧みや、人を蹴落としたあとの虚しさを感じることもありません。
最初に書きましたが、今起きているの大変革は神様が与えた試練でもあり、私たちが変わることを余儀なくされているものの、その先には多くの人たちが幸せに生きていけることにも繋がる可能性も見えてくるでしょう。
とにかくこの本ではそれぞれができること、得意なこと、好きなこと、今までの経験を生かせることを、小さな商いとしてやってみようということです。
参考文献:「小商のすすめ」 「経済成長」から「縮小均衡」の時代へ平川克実著
:「定常型社会」 〜新しい「豊かさ」の構想〜 広井良典著
:「半市場経済」 〜成長だけでない「共創社会」の時代〜 内山節著
関連サイト:アフターコロナをどう考えるか? vol.1
:止まった資本主義? (自然の中の人間)アフターコロナを考える vol.2.
:コロナ禍の中で経済を動かすには!持続可能な社会 vol.3