深層意識と絨毯 クラウドバンドべシールvol.3.

Posted by tribe on 2020年7月18日

前回のクラウドバンドべシール絨毯から見た「深層意識とトライバルラグの関係」についての続きです。

昔々、手織り絨毯に関する研究会を組織していた際、年に数回「じゅうたん会議」という会員向けの会報を編集していました。
およそ12年間で合わせて30号以上続きましたが、その間様々な絨毯に関する情報収集を行っていました。
ところが日本では手織り絨毯に関する情報が集まらず、毎回かなり苦労していました。
その際にページを埋めるために苦し紛れに書いたのですが、前回のユングやフロイトが提唱した「潜在意識」もしくは「深層意識」が、絨毯の文様にどのように関わっているのかという妄想です。
このブログでもいつかは投稿しようかどうか迷っていましたが、クラウドバンドべシールのデザインと少しは関係があるかと思いました。
今から10年以上前の話なので、だいぶ時代を感じますが投稿してみます。

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ベルリン国立博物館イスラム美術館所蔵の龍と鳳凰文様カーペット

今回の写真は記事と関連性がありませんが、世界各地の代表的なDORAGN CARPERSを集めて紹介します。

絨毯と無意識(創造性とは何か?)

この所の目覚しい神経細胞系医学の進歩で、脳と心の関係が整理され神経系の生理学的解明が進んでいるようです。
記憶というものは過去の現象を、コンピューターのメモリーが情報をコード化して蓄積するように脳のどこかに貯蔵されるのではなく、生きているすべての瞬間に、創造としての記憶が刻々と変化しながら現れてくるものではないかという、創造的記憶の存在が提唱され始めています。
主に記憶を司どる側頭連合野とそれを思い出すための信号を送る前頭葉の働きなども脳科学で随分と解明されつつあると思います。
これは「記憶」と「創造」にも深い関わりがあり、コンピューター、さらにAIとは違う人の脳は、側頭連合野に蓄積された情報がデジタルデータ(完全なコード)とは違い、前頭葉の指示により微妙に変化して立ち上がってくることに関係しているとも言えます。
人間の「記憶」とは曖昧でかつ創造的であり、それまでに蓄えられた膨大な情報を再構築しながら「生成」しつづけるダイナミックなシステムといえるようです。*1

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コーカサスやアルメニに見られる伝統的なドラゴンカーペット

当時絨毯研究会は最盛期で、このブログでも再三紹介しているDr.Jon Thompson著の「Carpet Magic」を、中心的メンバーが持ち回りで翻訳する分科会も立ち上がっていました。
数人のメンバーが交代で受け持ちパートを訳し、月に2度ほど杉並区の公民館に集まって、それぞれの訳文に対して意見を交換するという内容の分科会でした。
翻訳作業もかなり佳境に入っていて、訳をめぐっての微妙なやり取りも、チャットの中で行われていました。その際にとても印象的なやり取りがありました。

奈良在住の為、メールで参加されていたF氏の訳に対して、事務局長のTさんと会の世話役であるDさんが、微妙なニュアンスの解釈に修正の提案をされていました。
その個所の一部を紹介すると「最も見事なのは何も見ないで織り上げることである。」いかえれば「記憶で織る」という文章でした。
前述の「記憶」と「創造」との関係に特に強い関心をもっていたため、この「絨毯をそらで織るという行為」が下絵を見ながら織るのとは違う、人間のダイナミックな創造力を生み出すのではないかという想像にかきたてられました。
ここでは著者のJon Thompson氏は「記憶から文様を描く行為と、文様を下絵に描く事を、同等に最も見事な技として賞賛している」ようで、特にないも見ないで織ることには触れていませんでした。
原文は『The most impressive skill is a mental one, best appreciated by drawing a carpet pattern on paper, then trying to draw it from memory.
=最も印象的な技術はメンタルなものであり、紙に絨毯の文様を描き、記憶からそれを表現することによって最も高く評価されています。』となっています。

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アゼルバイジャンを代表するスマック技法を使ったドラゴンスマック

ご本人が絨毯を織るTさんは「一つの文様を結び目の配列として記憶する能力の習得を意味している。」と解釈しました。
これは絨毯を織ったことがない人にはなかなか理解しにくいのではないかと思いますが、絨毯を織るという行為の本質を言い当てている、絶妙な解釈だと思っています。
一方Dさんは「文様を一段ごとの結びで表現をするには、大変知的な下準備が行なわれる。」著者はそんな絨毯織りの文様表現の仕組みに感動しているのではないか、という解釈でした。
ここで著者のThompson氏は「そらで織る行為=記憶で織る行為」が最も見事であるとは言っていないように感じました。皆さんはどうように解釈されるでしょうか?
手前味噌ですが、当時の「じゅうたん会議」はかなり掘り下げた話をしていたと思います。

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ユニークで愛嬌のある龍文様が縦横にみっしり並ぶコーカサスの平織り

空で絨毯を織るということ

そこで思い出したのが、チェスの世界チャンピオンの話でした。
IBMが7年かけて開発した人工知能で、1秒あたり2億手を読むと言われるコンピューター「ディープ・ブルー」と対戦した後のインタビューで、当時の世界チャンピオンの発した「私は考えながら打つのではない、手の方が思考より先に動くのである。」という言葉です。
かなり飛躍した例えですが、何も見ないで行為を行うことを「そら」ですると言います。下絵を見ないで絨毯を織ったり、考えないで行為が先に行われることを「そら」ですると喩えられます。
そらで織るの「そら=空」は仏教的には般若心経でいうところの「空」、つまりは深層意識と深く繋がっているのではないだろうか?と閃いたのです。
空(そら)で織るという行為は単純に何も見ずに、記憶で織るということなのでしょうか?
その行為が深層意識と繋がった時に、機械とは違う種としてのヒトの潜在的記憶が立ちあがり、トルクメン族であればトルクメン族の、バルーチ族であればバルーチ族の、あるいは日本人であれば日本人の遠い過去から先祖代々の記憶と蘇るのではないでしょうか?
先に紹介した港千尋氏の「記憶」とは「創像」と「想起」の力によって為されるという思いが浮かんできました。
トライバルラグの特徴の一つは「下絵を見ないで織るということ」にあります。
遊牧民の女性達は、織り機のタテ糸を張り絨毯を織り始めると、指先に紡いだ毛糸を「結ぶ」瞬間に、記憶から想像力が立ち上がり、自由な表現が生まれていくのではないかと感じてしまいました。

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チベットの仏教寺院の柱に巻かれるピラーカーペット

民芸運動の創始者でもあり、民芸の美と宗教哲学との関係を様々なテキストで提唱し続けた柳宗悦氏も「下手ものの美」、後の「雑器の美」のなかで無学で貧しい陶工の手による皿がかくも美しいのは、
『無心な帰依から信仰が出てくるように、自ら器には美が湧いてくるのだ』と綴っていいます。
同時に「その時代、その地域で最も多数派で、生産活動にたずさわっていた人々が愛用した、地方の素材と伝統の技を用いて作られたものの中にこそ美しいものが創出される。」とも述べています。*2
ここでの器=手工芸は、手織りの絨毯に当てはめることが出来るのではないでしょうか。少し前のブログでも触れましたが、柳宗悦氏がトライバルラグをたくさんも見ていたらどのような言葉を紡いでくれたのか想像します。
この思想は柳宗悦氏が影響を受けたと言われる、西田幾多郎氏の「善の研究」にも「純粋経験」という言葉として紹介されています。

潜在意識とクラウドバンド(雲龍文様)

ここでやっとクラウドバンドべシールに戻ります。
この絨毯にかなり関係の深い「龍」という存在ですが、実在する「龍」を見た人はほとんど居ないと思います。
ところが、神社仏閣には龍の彫物や天井画、水と関係するためか手水の蛇口にも龍の頭は登場します。
また十二支にも当たり前に「辰年=龍年」があり、年賀状の季節には今年はどんな「龍」を描こうかと迷ったりします。
本物の龍は実在していないことは子供でも知っていると思うのですが、特にアジアでは龍は想像上の存在として身近にいます。
この不思議さはいつかまた話題にしたいと思いますが、龍文様は絨毯の中の文様としても幅広い地域で表現されています。
今回のクラウドバンドべシールもそうですが、写真で紹介したチベット絨毯、寧夏、包頭などのチャイニーズラグ、あるいはコーカサスやアルメニアにもドラゴンラグと呼ばれる、「龍」を文様化した絨毯が多数存在しています。
欧州では忌み嫌われ「悪者」として勇者に退治される、火を吐く竜ですが、身近な守護神としての龍の存在はコーカサス地方あたりが分岐点にあるのではないかと感じてます。
ここでも妄想を膨らませると、龍は人間に征服される荒ぶる「大自然」の象徴なのか、私たちに恩恵を齎す自然の化身なのか?
ある意味では今回話題してきた人類全体の深層意識に潜む存在が「龍」なのか?
空想は尽きませんが、次回にでも龍文様が絨毯にどのような関わりを持つのか、地域や民族性などからも掘り下げて見たいものです。

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明朝歴代皇帝のための5本爪のドラゴンカーペット

余談ですが、じゅうたん会議では時々「織り手の気持ち」という抽象的な感覚が、絨毯の文様にどのような影響を及ぼすのかが話題に上がり、盛り上がりました。
現在日本でもあちこちで見られるようになった手織り絨毯は織る際にどのような状況にあるか分類してみます。

1.デザイナーにより描かれた文様をそれに忠実に結んでいく物

2.売れている絨毯をそのままコピーして織る物

3.下絵を見ずに織り手の「記憶=創造」により結び目が出来上がっていくもの

大雑把に分けて見ました。

手織絨毯研究会では、この違いを浮き彫りにするところまでは議論は進みませんでしたが、この違いは会員それぞれが、絨毯に対する思い入れの深さの片鱗を垣間見る事が出来たように思います。
この『織り手の立場に立った視点』は、まだ日の浅い日本における手織り絨毯の研究の中では議論が難しいかもしれませんが、絨毯好きが集う場などでは興味深いテーマとなりえるかもしれません。
今後また絨毯好きの「集い」ができることを願っています。

参考文献:*1港千尋著「記憶」創造と想起の力
*2松井健著「柳宗悦の民芸と現在」
*3西田幾多郎「善の研究」

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ユーラシア大陸に広く見られる龍と天体を繋ぐの信仰

参考サイト:☁️ホラサーンで見たクラウドバンド(雲龍)vol1.
✨星座とシンクロする絨毯文様 クラウドバンドべシールvol2.
 民藝とトライバルラグ2  柳宗悦はトライバルラグをどう見ていたのか?