遊牧民は手紡ぎの糸で自らの絨毯を織るのか?クルド遊牧民vol.2
Posted by tribe on 2020年8月1日
前回の続きです。
最初に出会った子供達の後から、彼らの家族達が続々と現れ、最終的にはクルド遊牧民家族全員と会うことができました。
念願の本物の遊牧民に出会えたことでテンションは最高潮でした。
最初に犬を抑えてくれた少年の家族とその親戚の合わせて10人くらいが同じキャンプに滞在している様子で、彼の両親、そして叔母さんに当たる親戚家族が一緒に行動しているようでした。
昔イランでは街中で女性の写真を撮ることは難しく、特にご主人がいる場合まず旦那の許可を得てから出ないと、撮影はしない方がいいと友人から聞いていました。
この20年でその辺りはだいぶ変化し、今では進歩的で前向きな女性が増えています。テヘランなどでも堂々と異性(時に男性が女性の)の写真を撮ることができるようになってきているらしいです。
手紡ぎの現場に遭遇
子供達にお願いしてなんとか家族の撮影ができましたが、動画撮影ができなかったことが今でも心残りです。
長い間疑問に思っていたのは、「遊牧民は手紡ぎの糸を使っているのか?」と言うことでしたが、確かめるどころが、実際に行っている場面に遭遇することが出来たのです。
今回紹介する写真は、よくTVのドキュメンタリーなどで登場するいわゆる「やらせ」ではなく、出会った時すでにスピンドルを片手に糸紡ぎをしていたのです。
齢40代ぐらいでしょうか、クルド族らしい華やかな民族衣装を着た女性がシンプルな木製のスピンドルを巧みに回しながら、生成りの毛糸を紡いでいました。
左手にはワタ状にほぐした羊毛を持ち、右手で紡ぎ車(スピンドル)を適度に回転させ、その遠心力を利用して左手のワタを少しづつ送り出して行きます。
この時にワタ状の繊維を送り出す分量とタイミングが重要です。何度か試して見ましたが、ぶつぶつ切れたり、太すぎたりと、均一の太さの糸を紡ぐのは至難の技だと感じていました。
実際に均一で、細く、拠りのかかった糸を紡ぐには、相当の修行が必要だと手紡ぎの先生から聞きました。
クルドの女性達はおしゃべりしながら、わけもなく魔法のように糸を紡ぐ姿が印象的でした。
出会った時期は夏でしたので、比較的薄着だったようですが、冬はさらに華やかな衣装を重ねて着るとのことでした。
こちらはもう大興奮でもっともっと色々な話を聞きたかったのですが、当時はペルシャ語もおぼつかなく、同行したトルクメンのサレヒとその友人に頼んだのですが、どうも先程までの元気さは影を潜めて、何やら落ち着かない様子でした。
ついたのは午後の早い時間で、遊牧民の人達もちょうどナハール(昼食)の時間でした。いいタイミングでナンを焼くいい香りがどこからともなく漂ってきました。
遊牧民の焼くナンは最高に美味しいと聞いていたので、これはご馳走になれるかも?と期待は高まりました。
こちらとしては昼食はもちろん半日くらいは滞在して、じっくりとクルド族の家族から遊牧生活の話を聞きたい気持ちでいっぱいでした。
ところがサレヒ達は、どうも逃げ腰でそのランチも辞退したい素振りでした。
今日はゆっくりクルドの家族と時間を共にしたいと言うと、急に車を返さなければ行けないので、早く帰らなければならないと言い出しました。
こんなチャンスは滅多にないので、せめてもう暫く滞在したいと繰り返したのですが、なかなか聞き入れてはもらえませんでした。
その時は何故そんなに早く帰りたかったのか理解できず、こちらも少し腹立たしく思ったのですが、実はホラサーンのクルド族とトルクメン族には19世期まで激しい争いの歴史があったのです。
ホラサーン地方のクルド族とトルクメン族の抗争
クルド族がどうして現在のホラサーン地方に移動したのかは、諸説あるようです。
その一つは15世紀以降にサファビ朝のイスマイリ王の命令で、それまではトルコ東部のヴァン湖あたりに居たクルド族を、イラン東部地域に強制的に移住させたというものです。これにはクルド人勢力を分断させる目的もあったようです。
当時勢力を強めていた、トルクメンやウズベク族のイランへの侵入を防ぐ警護の任務と言う名目で、数千キロも離れたイラン北東部のホラサーンに配置されたのです。
18世紀の終わりにはウズベクを引き継ぐトルクメンの中のテケ族が、ホラサーンのクルド族の住む山岳地帯に侵入してきました。
1825年から1828年の間、クルド人達はトルクメン族の攻撃によってたいへんな打撃をうけました。
イギリス人のJ.B.フォスターによれば、彼が最初に訪れた1821年とその数年後の、その後の2回目訪問の際にその地域のクルド族の人口は3000人から300人になっていたと書かれています。
トルクメン族はHassan Khan Salor が亡くなる1847年まで、ホラサンーンの北部に攻撃を繰り返したそうです。この攻撃はクルド族のパワフルなリーダーSamKhan Kurd Zafaranluの出現によって数年後に終わりを迎えました。
1870年始めのひどい干ばつの後、トルクメン達ははロシアによって失った前線から再びその地域に戻り、復讐を行ないました。
その後も度重なるトルクメン族の侵入との戦いが続き、多大な被害や人口を失いながらクルド族は今もその土地を守り続けて来たそうです。
1881年トルクメンのテケ族がギョクテペにおいてロシア軍との戦闘に破れて和解しました。それ以降はイラン中央部からの移民やバルーチ族の移動もこの地に移住し、ホラサーンには新しい時代が始まりました。
トルクメン族とクルド族の過去には、こうした激しい抗争の歴史があったようです。
火を吹く車
こちらの腹立たしい思いと、まだ帰りたくない気持ちが皆にも伝わったのか、帰りの車は皆が無言で少し思い空気に包まれていました。
ホラサーンは広く、グーチャン村から州都マシャドまでは150キロ弱あるのですが、いつもは冗談で盛り上がる車中がその時は妙に静かでした。
半分くらいは過ぎた頃だったでしょうか。何やらキナ臭い匂いが車中に漂い始めました。皆が同じ匂いに気がついて、なんだかおかしいと車を止めようとした矢先でした。
フロントから真っ黒い煙が吹き出すのが見えました。道路脇に急停車してボンネットを開けたとたん火が吹き出して来るのが見えました。
皆が「アテーシュ!・アテーシュ!(ファイヤー)」と大声で叫び、とにかく車から離れろ!と大騒ぎになりました。
しばらくしてサレヒの友人が恐る恐る近づき、車の後ろに積んであった毛布を被せて、火はなんとか収まりましたが、エンジンルームは真っ黒になっていました。
焦げ臭い匂いあたりに充満して、目もチカチカ痛くなりました。
少しして火が治ったことを確認し、エンジンルームを覗くと、黒ごげになった布のキレハシが見つかりました。
長距離ドライブに出かける前に車の点検をした、サレヒの友人のサンバシオン氏が、どうも中を拭いたの布切れをエンジンルームに置き忘れたらしいのです。それがラジエターの熱で発火し、エンジンオイルに引火したのが出火の原因でした。
もしもガソリンに引火していたら大惨事でした。
とは行ってもお兄さんに借りてきた車だったので、今度はサレヒーの怒りと心配が止まりません。
友人はおそらく善意で車の点検と掃除をしたのだと思うのですが、それが結果的に大惨事の一歩手前の火事騒動になってしまいました。
翌日に友人とサレヒが一緒に謝りに行き、ことなきを得たようですがもしガソリンに引火していたら大変だったと、叱られたそうです。こちらもなんとか命拾いをしました。
後で考えると、クルド族とトルクメン族の出会いが過去の怨念を呼んで、こんな事態を引き起こしたのか?などと余計な妄想をしてしまいました。
イランでは想像もつかないことが時々起こります。
クルド族の遊牧民と出会い、手紡ぎの現場を見る事ができたのは、車の火事と合わせて今でも忘れられない思い出になっています。
参考文献:●TRIBAL RUGS by Brian MacDonald
●RUGS&CARPETS by Andrew Middleton
参考サイト:tribe-log.com 「遊牧民は手紡ぎの糸で自らの絨毯を織るのか?vol.1」
tribe-log.com メソポタミアとも関係のあるクルド族!独立の気運が高まってる!?