民藝とトライバルラグ2  柳宗悦はトライバルラグをどう見ていたのか?  

Posted by tribe on 2020年5月26日

今回の自粛生活の中で本の整理をしていましたが、どうしても溜まる一方の書籍の群。
これ以上本を増やさないようにとBook Walker(ブックウォカー)という読書アプリを導入しました。
ご存知の方も多いかと思いますが、amazonのkindleのような電子書籍です。ちょうどG.W.中のキャンペーンでポイントがたくさんついてお得なBook Walkerというアプリを選んだのですが、この中に無料で読めるサービス書籍がありました。
目ぼしい本は触りの一部分だけの紹介なのですが、その中に柳宗悦の昔の文献が何冊も含まれていたのです。
KindleのUnlimitedでも同様らしいですが、「民芸とはなにか」・「民芸四十年」・「工芸の道」など民芸の本質について書かれた柳の核心的な民芸論が無料で読めるのです。
もしも柳宗悦が生きていたらトライバルラグについてどう見たのかを知りたかったので、とてもラッキーでした。
知れば知るほどに、長い間考えていたトライバルラグの本質と柳宗悦の考える民芸に対する考察が驚くほど近いのに驚いています。

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講談社学術文庫の『民芸とは何か』

柳の考える優れた工芸品の条件とは?

これまでに何度か紹介した鎌田由美子さんの「柳宗悦の自然感と絨毯」の中で、優れた工芸品を構成する要素として「自然」と「歴史」が大事であると語られています。
まず柳は、人間が作るモノの背景には「作為のなさ」と「民族の伝承」が欠かせない要因であり、美しさを育てる父と母という表現をしています。
当時の日本では手織り絨毯はとても希少であったと思いますが、この本の中には手織り絨毯に関係する柳の考え方が具体的に紹介されています。

まずは絨毯の文様の表現については、技法や素材に伴う制約に従うことで、文様の輪郭をはっきり出すことが出来ないとしています。
例えとして絣技法が染糸のにじみなどで、柄に微妙なズレが生じることが挙げられています。
イラン西部のクルド族の織ったセネェという町のキリム(綴織)は綴織という曲線を出すの手間のかかる技法で、ペルシャ絨毯のような曲線美に挑戦していることで知られています。
綴織(キリム)では曲線的な文様を表現するのが難しいので、直線を組み合わせて幾何学文様を織り出していることに着目しているのかもしれません。
さらにその不自由性が絨毯の美になくてはならない要素であり、美しさの母と語られています。

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つづれ織りで曲線を表現する特徴的なセネェキリム

何故なら、緻密で繊細なトルコのヘレケやタブリーズの絵画的絨毯などは、くっきりとした輪郭を表現することが可能で、中には写真のような絨毯も存在してるからです。
この柳の指摘は、絨毯の中でも下絵(デザイン画)を元におられる都市工房の商業的絨毯と、遊牧民の生活から生まれる道具としてのトライバルラグの違いにそのまま当てはまります。

その後も柳の語る優れた工芸品の要素とは殆どが遊牧民の織ったトライバルラグに合致しています。
ところが現在の日本では柳が繰り返し述べる工芸の本質に合致したトライバルラグやアジア・アフリカの先住部族の手仕事が殆ど評価されてこなかったと思います。
その最大の理由は常設でトライバルアートやテキスタイルを見られる美術館や専門のギャラリーがほんの僅かしか存在していないからです。
柳と彼の仲間が築いた日本民芸館にも数年に一度程度しかそのような企画は無く、日本語で読める本格的な文献もこれまではほぼありませんでした。
(繰り返しになりますが鎌田由美子さんは貴重な存在です。)

どうして日本では民族美術特に染織品があまり評価されてこなかったのか?
今回は柳の考える工芸の本質と照らし合わせて紹介したいと思います。

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2015年に行われた民芸の展覧会の新聞広告(朝日新聞)

柳の考えるモノについての対比

初期に書かれた「民芸とはなにか」という論考を読むと、工芸に対して常に対立したシチュエーションから生み出されるモノとして、比較しているように見えます。

柳は「美術」と「工芸」、「貴族的」と「民衆的」、「上手」と「下手」、「有名」と「無銘」、または「人為」と「無作為」などなど反する立場から視点でで民芸の素晴らしさを語ります。
これはジョン・トンプソンが「Carpet Magic」 で行った遊牧民の絨毯(トライバルラグ)と都市工房(商業的)絨毯の対比に似ていると部分が多く、しれば知るほど、柳が考える工芸的性質と遊牧民の絨毯は添うところが多いと感じます。
もし柳が本物のトライバルラグをたくさん見ていたら、絶賛してくれたのではないかと思います。
そして最大のインフルエンサーになってくれただろうと想像してしまいます。

バブル時代の終わりころでしたが、某大手絨毯販売メーカーが絨毯に関する洋書を翻訳してセールスプロモーションに役立てていました。
まだまだ手織り絨毯が売れていた時期に、当時高い評価を得ていたDr.Jon Thompsonの「Carpet Magic」の翻訳本の企画があったそうです。
翻訳した人から聞いた話ですが、訳が終了し原稿のチェックも終わり、出版かと思っていたら、急にその出版の話が立ち消えになったそうです。
本当の理由はわかりませんが、本の内容があまりにもトライバルラグ讃美で、当時の販売の主力商品であった都市工房の絨毯(ペルシャ絨毯など)の解説は終わりの方に僅かしか無く、どちらかというと商業的絨毯は、添え物的な内容だったからかと想像しています。

「民芸とはなにか」の2章で柳による『何故民芸の意義を語らねならないか』という文章があるのですが、どうして日本では商業的絨毯しか受け入れられとこなかったかの理由とあまりにも共通しています。
大袈裟ですが、一字一句変えずに当てはめられるほどです。

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現代民芸で人気の倉敷ノッティング

柳の語る民芸の意義とは?

1.民芸品の美しさが全く認められていない。
(歴史的にも民の作るものの性質、意義が注目されてこなかった。)

これについては、「野の花」の美しさを民芸みたて、貴族的な物を「温室育ちの花」として対比させています。
繰り返しになりますが、これまでに厳しい遊牧生活の中から実用の道具として生まれたラグや生活必需品として織られた布は、日本ではほとんど知られてきませんでした。

2.貴族的な贅沢品ばかりが高い評価を得ている。
(丹念とか精密さはあり、模様も錯雑さを増しているがそれは直ちに美ではない。)

かなり厳しい表現ですが、細かさばかりを追求したバブル時代のペルシャ絨毯が思いおこされます。
実際に当時は伝統的な絨毯にあまり無かった高級素材であるシルク絨毯ばかりが注目されてました。

3.民の作る焼物、織物、木工品ともに「無銘品」である。
(民衆から生まれた名も無きモノは健やかである。)

それに対して富貴(貴族的)な物は病が多い。ここでもまたかなり手厳しい言葉が綴られています。『人は器を見ずに、銘を見、技巧を見ているのです。』 
箱書に頼ってものを見る人々に対して直感の基礎がないとしています。

ここでもペルシャ絨毯を思い出しました。40年ほど前に最初に輸入された絨毯には、殆ど工房銘はありませんでした。
その10年程後のバブルの絶頂期は、逆に工房銘の織り込まれた絨毯ばかりになっていました。

さらに言えばその後大人気となったギャベも「ゾーランバリ」というブランド名が前面に出て、「それ以外はギャベではありません。」という会社もあるらしいです。
「遊牧民の生活から生まれ素朴な絨毯です!」のようなうたい文句で宣伝しながら、実は真逆のブランディングを行っているのです。
これも日本人のブランド好きがよくわかりますが、実際に現在でも最も売れている絨毯のひとつです。

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上段はクムシルク、下段はイスファハンの工房銘入りの絨毯

4.直感の前に上下はない。(美しい物は美しい)

この辺りの熱い思いが柳の工芸論の真骨頂ですが、作り手の心の問題へとつながります。無心なる心の者によって作られる物には安らかな境地が宿っている。
主我(自我)と忘我(無意識)との関係とも述べていますが、人間の自我よりも、自然の中に含まれるより健やかな叡智が民芸の本質である強調されているのです。
松井健氏の「民芸の擁護」という本の中でも『民芸』とは柳宗悦の直感で選ばれたモノに尽きる』というような意味があったように思います。

民芸の喜びを追求した柳宗悦の残した言葉は膨大かつ濃厚です。

トライバルラグや部族の手仕事との関係する部分を拾い集めながらこのブログでも続けて紹介していけたらと思います。

参考文献:「自然を前にした人間の哲学」〜柳宗悦の自然感と絨毯〜 鎌田由美子著 
     「民芸とは何か」 柳宗悦著 講談社学術文庫 
     「工芸の道」 柳宗悦著 青空文庫

参考サイト:民芸とトライバルラグ1 (トライバルラグとは何か?-2) 
     民芸運動の創始者柳宗悦と遊牧民
     民芸「The Mingei」の復活!(用の美と美の用関係とは)